デモの意義: 世界とのつながりを意識して研究を進める

今週末にあるオープンキャンパスで公開する予定のデモの準備が一段落した.産みの苦しみを感じた去年と比べればだいぶ楽だったが,それでもここ二週間は準備にかかりっきりだった.今の職場は,学生の指導と査読の仕事を除けば自由に時間を使うことができるが,その代わりに(自分の好きな研究をする Excuse として)オープンキャンパスで外部の人向けのデモをつくることが強く求められる.自分の研究室における存在価値は,良い会議に論文を通すことで示すというより,むしろ研究室内のデータを活用して外部の人を驚かせる(夢を与える)デモを見せることで決まる,と言っても良い.特に今年は論文を出していないので,昨年とは違うプレッシャーがあった.
デモは,自分が解こうとしている問題の重要性を客観的な視点で見つめ直す機会を与えてくれる.人に見せるところまで通して何かをつくろうとすると,分野内で議論されている色々な問題に対して,その場しのぎの解決策を出していかざるを得ない.そういうことを積み重ねると,どんな問題が本質的に大切で,簡単には解けず,最終的な出力への影響が大きいか,ということを否が応にも認識することになる.こういう空間感覚は個々の問題だけを見ていたら絶対に身につかない.アカデミアの研究者にとっては,普段なじみのある(小奇麗な)データから離れて,生のデータと正面から向き合う数少ない貴重な機会でもあり,生のデータにどっぷり浸かることで,新しい大事な問題が見つかることもある.
昨年のデモは,分野外の研究者や一般の人には受けたが,分野内の研究者にはあまり受けなかった.これは分野の中と外で,自分の分野で取り組まれている問題の捉え方に大きなズレがあるということを意味する.そういう意味で,デモを行う際には,出力に含まれる「気持ち悪さ」に対して分野外の人がどのような印象を持つか,という点に注目するようにしている.分野外の人が,どのような問題ができて当然と感じて,どのような問題が簡単には解けないと感じるのか.研究者としては(ウケを狙う必要はなく)基本的には自分が面白い,大事だと感じる問題に取り組むので良いと思うが,それを最後まで貫くためにも(適切に Excuse ができるよう)問題に対する客観的な視点を知っておくべきだと感じる.
特に自分のように基礎研究に取り組もうとする場合には.解こうとする問題の難しさ,大切さ,その問題の位置付け(重要性)をデモを通して実演することが大切だと感じる.基礎研究は,分野内で論文だけ書くなら「何故それを研究するのか」という点を議論せずに済ませられるところが多い.また,専門分野に特化した研究室にいるとボスが考えてくれるので自分では真剣に考えずに済ませてしまうことも多い(というか,基礎研究の意義に疑問に持つという考えがそもそも浮かばない).外の世界に出る(自分で研究室を持つ,予算の高い科研費を狙う,分野外の研究室に行く)と,そうはいかない.何故そうするか,という点について自分の言葉で説明できないといけない.外部の人にデモを通して基礎研究の意義を説明するというのは,その訓練にもなる.
このようなことつらつらと考えてみると,(自分の研究を完全にサスペンドして)デモのために費やした二週間がとても価値がある時間だったと思えてくるのである.可視化の研究者との協力作業が楽しいことは論文の賞は共著でもらう方が嬉しいもの - ny23の日記で書いた通り,というわけで,今年もオープンキャンパスが始まります.関東近辺で週末に予定がない方は是非デモをしばいて頂きたい.気分的には今月が年度末.
(例によって思うままに書いただけなので暇になったら推敲する予定)