査読付き(国際)学会に出さないでジャーナルに出しているのだろうか

今回改めて感じたけど,ジャーナルの査読は大変だ.照会は一度のみとか言われると,指摘するところは全て指摘しないといけないのか,と身構えてしまう.そういうわけで,見落としが無いようしっかり読もうとするのだけど,これがなかなかにしんどい.論文の内容はともかく,それ以前に日本語としての体裁に問題がある論文が多過ぎる.助詞の抜けが幾つかあるぐらいならいいけど,読みにくい論文で特に目につくのは,抽象的な名詞(データ,情報,知識,リスト)の乱用や,主語や目的語の省略.この類の「書き手の手抜き」があると,読むだけで異常に疲れる.日本語は冠詞が無いので,抽象名詞を使うときは,指示詞や形容詞で適切に具体化するか別名をつけた方がいい.主語も目的語も,基本的に省略してはいけない(例外は一人称の主語ぐらいか).あいまいな日本語の悪いところが出ている感じだ.
こういうのは,日本語以外の言語(要するに英語)で何度か論文を書くと,自然と無くなっていくような気がする.ネイティブスピーカーでない言語で論文を書く際には書くことに対して自省的になるので,明瞭な文章を書くための基本的なルールを意識するようになるから.第一著者が論文を書くのが(英語・日本語を含めて)ほとんど初めて,というのはもちろんあり得るし,学生・若手研究者は周りが育てていかないといけないとは思うけど,共著者まで含めて論文を書いた経験が少ないというケースはあまりないと思うので,日本語も含めて最低限の品質は確保して欲しい.
普通,研究は(研究会・全国大会→)査読付き会議(国際学会)→ジャーナルという流れで回すものだと了解していたけど,ここから推測するに,研究会・全国大会→ジャーナルという流れで研究を回している研究者がいるとしか思えない(批判の目に一切さらされていないジャーナルを読まされる査読者は悲惨).会議にそぐわないタイプの研究でない限り,なるべくどこかで査読を受けてからジャーナルにして欲しい.
この辺り,アカデミックポストでジャーナルが偏重される文化とも関係していると思うのだけど,非常に良くない状態だと思う(ブラックリストを作ってもいいぐらい).Short Paper は何のためにあるのか - ny23の日記で将来的にはジャーナルだけにしてもいいのではと書いたけど,現状では light-weight review として査読付き会議は必要不可欠だ.